ストロークプレーの一類型で、仲間内、会社などのコンペで使われるゲーム方式に、ハンディキャャップ戦というものがある。18ホールトータルの実打数グロスから、ハンディキャップHCを差し引いた、修正打数ネットで競われるゲーム。
ネット(修正スコア) = グロス(実打数) - ハンディキャップHC
逆立ちしても勝てない相手に一矢を報いることができるゲームシステム、これがネットで戦うハンディ戦。これは、他のスポーツには見られないゲーム方式か。このハンディキャップを取り入れることによって、腕前の違う多くのゴルファーが、一緒にゴルフを楽しめる。老いも若きも、男も女も、上手も下手もである。
「ハンデイ30の人はゴルフをおろそかにする。
ハンデイ20の人は家庭をおろ そかにする。
ハンデイ10の人は仕事をおろそかにする。
ハンデイ5以下の人はすべてをおろそかにする」
(英国の宰相 ディビッド・ロイド・ジョージ)
仲間内、会社内で行われるコンペでは、HCの上限は36が一般的である。このHCの恩恵を受けたとしても、ネット優勝を狙えるのはダブルボギーペースのラウンドスコア108(HC36)初中級者辺りまでだろう。初心者やトリプルボギーペースのラウンドスコア126辺りの初級者には厳しい。
上位入賞は無理でも、飛ばし自慢はドラコン、アイアン自慢はニアピンを狙えばいい。他にも「棚からぼた餅」的賞として大波・小波・さざ波賞、飛び賞など多彩な賞が用意されていることも。腕に自信のない人たちにも、ブービーメーカー、ブービー賞がある。
大波・小波・さざ波賞とは、その名称から予想がつく。前半のスコアと後半のスコアを比べ、その差が大きいものを大波、その差が小さいものを小波、その差がないものをさざ波と称す。大波と小波については、後半のスコアの方がいいことを条件としているのがミソか。
そして飛び賞とは、たとえば5位、10位、15位、20位などが対象となる。まったくの偶然で受賞するもの。こじつけとしか言いようがない。
最後にブービーメーカー、ブービーについて。ブービーメーカー賞とは、最下位の人に贈られる賞、ブービー賞とは、ビリから2番目の人に贈られる賞で、いい商品が用意されることが多い。
幹事の裁量、力量、センスでコンペはいかようにもなる。どこのステージにいても楽しめるのがゴルフ、そしてゴルフコンペ。
ゴルファーには、大きく分けて相反する2種類の人種がいることはご存じだろうか。
一つは「好きこそものの上手なり」の一派である。これは、いわばシングルと呼ばれるような上級者グループ。この人たちの楽しみは、もっぱらハンディを減らすこと。ボギーペースのラウンド90~100辺りのアベレージクラスまでを含む。
もう一つが「下手の横好き」の一派。
長年ゴルフをやってはいるものの、ダブルボギーペースの
ラウンド108からなかなか抜け出せないでいるグループ。この人たちの楽しみは、コンペ後の反省会、いやただの飲み会。
両派に共通しているのは、とにかくゴルフが好きなこと。どちらに属していても楽しめる、それがゴルフ。実は、面白いのはゴルフで
はなく、ゴルフをする人、ゴルファー達がコースで繰り広げるドタバタ劇なのかもしれない。
ちなみに、この両派に派閥争いはない。あるのは握りの条件闘争くらいである。
「世の中には、下手でも楽しめるものが二つある。それはセックスとゴルフである」
(プロゴルファー チチ・ロドリゲス)
300ヤードのドライバーショットも、1メートルのショートパットも、同じ1打。誰が考えたかこのゲームシステム。
果たしてプレーヤーにとって、公平なのか、不公平なのか。でも、だからゴルフは面白い。そして、永く競技することができるのは、この不平等のおかげである。加齢で体力が落ち、飛距離が落ちたとしても、それはアプローチやパッティングでカバーできるのがゴルフ。
得手、不得手が交じり合った14本のクラブ、全部が苦手はあり得ない。全部が得意もあり得ない。ドライバーショットの爽快感が好きな人、アイアンショットの充実感が好きな人、パットの安堵感が好きな人。人それぞれではあろうが、何か一つは取り得がありそうなところは、人間っぽくていい。
「人生には誰にでも4つの記念日がある。誕生日、婚約日、結婚日、そして死亡日。
だがゴルファーにはもう一つこれに加える記念日がある。
それは、はじめて100を切った日」 (リューイス・ブラウン)
どのレベル、どのステージにあっても楽しめるのがゴルフ。その楽しいゴルフ、人それぞれゴール設定は違っていいとはいったものの、人もゴルファーもなかなか欲深い動物。貪欲である。
この位でいいと思っていても、達成するともっと、もっともっとと欲が出る。もっといいスコアで上がりたい、HCをもっと減らしたい。 ゴールがあるようでないのが、人生、そしてゴルフなのではないだろうか。
そしてそのゴルフ、一つのラウンドで3回も楽しめるらしい。
1つ目はラウンド前のわくわくした期待感
2つ目はラウンド中の煩悩と戦う喜怒哀楽の面白さ
3つ目はラウンド後の言い訳、タラレバ、そして負け惜しみを酒の肴にした反省会こと、ただの飲み会。
何かのCMで一粒で2度おいしいというフレーズがあったが、一つのラウンドで3回も楽しめるとは、恐れ入る。ゴルフ、かなりお得なゲームだと思う。
「ゴルフは、コースにいくまで、プレー中、そしてプレー後、3回も楽しめるゲームだ」
(英国政治家、哲学者 アーサー・バルフォア伯爵)
ナイスショットとは、言うまでもなく、いいショットのこと。そして、それに対する称賛の文句。グッドショット。さらにはファイン、ビューティフルなども使われる。
ゴルフスウィングは高い再現性を求められるが、打つボールのある状態、状況には再現性はないといっていい、毎回のように違う。だからコースでは、練習場のようなナイスショットは続かない。
ナイスショットが続けば、ゴルフが楽になるというのは間違いないが、ナイスショットの集まりがベストスコアだとは限らないのが、ゴルフの面白いところ。
ドライバーの調子の良い日、悪い日、アイアンの調子の良い日、悪い日、寄せの調子の良い日、悪い日、パットの調子の良い日、悪い日、その日のラウンドは、そのいろんな組み合わせから成る。何かが良ければ、何かが悪いのがゴルフ。ドライバーが良い日はアイアンが悪い、アイアンが良い日はドライバーが悪い、どちらも悪い。どちらも良い日にはなかなかお目にかかれないものだ。
「世の中で思い通りにならなかったのはゴルフだけだった」
(米国世界一の大富豪 ジョン・ロックフェラー)
ドライバーの爽快感、アイアンの充実感、そしてパターの安堵感。感じ方は人それぞれだろうが、これらを感じられるのが
ゴルフの醍醐味。とりわけ、ドライバーの飛距離に対する欲求、それがもたらすアドバンテージの幻想は、今も存在する。
ゴルフとは、できるだけ少ない打数でカップにボールを入れるスポーツだが、その最終的な目的は忘れられがちだ。ついど派手なドライバーショットの飛距離に、ゴルファーは心を奪われる。今日イチと呼べるビッグドライブがあれば、その日のスコアがいまいちだったとしても、不思議と納得してしまう。
確かにドライバーのスーパーショットは爽快で、その飛距離はアドバンテージであることは否定しない。が、スコアをまとめていくには、ショートゲーム、とりわけグリーン周りのアプローチ、グリーン上でのパッティングの腕を磨くに限る。分かってるのに、なぜかその練習をおろそかにしてしまう。だから私は永遠のMr.ボギー
「ゴルフスコアの60パーセントは、ピンから125ヤード以内で打たれたものだ」
(プロゴルファー サム・スニード)
最終決戦の地グリーン上では、情報収集が大事。縦の傾斜による上り、下り、横の傾斜による右曲がり、左曲がり、芝目、芝の刈込みによる速い、遅い、雨、風、晴れ続きなど乾湿を生む気象状況など、これらの組み合わせでその日のグリーンの状態が決まる。
そしてこのグリーンを責めるのが人それぞれの距離感。苦労してやっとグリーンにボールを運び、ホッとできると思いきや、実はここからが勝負処。これがグリーン。
パットには、型もセオリーもないといわれる。そのためか、パッティングには、ショットに比べ、こう打つべき、かくあるべきといった、押しつけ的レッスン書は少ない。自己流でも結構、型にはまらずともいい、入るか入らないかだけである、と。型、セオリーがないからこそ、実は難しい。一つはカップをオーバーするようなパットを勧め、もう一つはかろうじてカップに届くようなパットを勧める。相反するとも思える二つの格言が成り立つ、だからパットは悩ましい。
「ゴルフという不思議なゲームの中で、最も不思議なゲームはパッティングである」
(球聖 ボビー・ジョーンズ)
パッティングに関する代表的、かつ相反する格言が二つある。
「ネバーアップ、ネバーイン」 (英国のプロゴルファー トム・モリス)
これは子供にでも分かる理屈で、届かなければ入らないというもの。確かにカップに届かないボールは、カップに入るはずはない。強めに打って、まんまとカップインした時には、この格言はありである。しかしこの格言、実は要注意でもある。長い距離を残してのパット、この格言を信じ強く打ち過ぎカップを大きくオーバー、返しのパットも外しての3パット、バーディ狙いのボギーは、よくある話である。
「カップには4つのドア(入口)がある。フロントドア、左右のドア、そしてバックドアで、
ボールがかろうじてカップに届くように打てば、この4つのドアから入るチャンスがある」
(プロゴルファー スチュワート・メイドン)
パターはカップオーバーするくらいに打てというのも真理ならば、パットは最後のひと転がりで入るくらいの強さで打つべきだも真理。逆もまた真なりか。相反する2つのセオリーが成り立つのが、パッティングの面白さ、難しさ。
上級者と中級、初中級、初級者それぞれのスコアの差は、パットとアプローチから成るショートゲームの差にあるといえる。友人のシングルさんとラウンドするたび、このことを痛感する。
各ホール、グリーン周りまではほぼ同じ打数でたどり着くものの、ホールアウトする頃には20打前後の差がついている。だから私は、Mrボギー。レベルアップの鍵は、間違いなく
ショートゲームのスキルアップ。
しかし、そのための練習に費やす時間、球数は、アイアン、ドライバーの練習量には遠く及ばない。重要性は分かっていながら、なぜそれをやらないのか、これはゴルファー、特にアマチュアゴルファー永遠のテーマ。
「ゴルフは、ボールをカップに入れるゲーム。あなたの14本のクラブの中で、
ボールをカップに入れるのはパターだけなのに、
なぜパターの練習はおろそかにされるのだろうか」
(ゴルフ指導者で「ゴルフの極意」の著者 ジャック・バーク)
ゴルフほど練習と本番に乖離があるスポーツは、他に見当たらない。野球は野球場で、テニスはテニスコートで、サッカーはサッカー場で、ゴルフ以外のスポーツは本番とほぼ同じ状態で練習ができる。
これに対し、ゴルフは練習場と本番のコースが全くの別物。練習場での練習が本番につながらないジレンマ、苦悩がそこにある。ゴルフを難しくしている原因がここにある。
練習場は足場もボールのライもフラット、マットがあるためスクエアなスタンスが見つかりやすい、人工芝マットはアイアンのミスショットを隠すなど、プレーヤーに過保護にできている。
しかし、実際のコースに平らな所はほとんどなく、広々として目印のないところではスクエアは見つけにくい。アイアンのミスショットはざっくり、ダフリとなる。本番のコースは、プレーヤーに厳しい、甘やかしはしない。その上コースは目の錯誤を狙ったトラップ、砂場・水場など地のハザードを用意し、ゴルファーを待ち受ける。そして時に雨風など空のハザードまで現れる。
練習場と実践コースとの乖離を埋めるには、「習うより慣れろ」しかないだろう。経験値を上げて行かない限り、様々な場面に対処することは難しい。
練習場には、そこの主のような人がたくさんいる。遠くの打席から見ていると、気持ちよさそうにドライバーを飛ばし、気持ちよさそうにアイアン、そしてウェッジでボールを目的地に運ぶ。シングルなのかなと思わせる面々。
しかし、その多くが練習場シングル。実際はラウンドスコア90~100打辺りの人たちだったりする。この頃のゴルファーをアベレージゴルファーと呼ぶ。いわゆる中級者である。練習場ではかなりの確率でナイスショットを放つが、コースはそんなに気持ちよくプレーさせてはくれない。
「多くの人が、練習場でライオン、コースに出ると臆病者のニワトリになる」(トーマス・サイモン)
さまざまなシチュエーションを上手く料理できるのが上級者、いわゆるシングル。練習場シングルではなく、コースシングルである。時にパーでラウンドしてくることもある強者。
私の友人で競技ゴルフをやっている彼とのラウンドで、シングルの凄味を見た。
その日あまり調子の良くなかった彼の表情が変わった気がした上がり3ホール、一気にギアはトップに。いくらホームコースとはいえ、まさかの3連続バーディ。しかもラス、ラス前は連続チップインというおまけ付き。やはりこのクラスの人、コースシングル、只者ではない。
比較的パーを取りやすいホールをサービスホールという。ゴルフ場は、距離の長短、フェアウウェイの広狭、ラフの深浅、ハザードの有無などにより、ホールの難易を定めている。
これはスコアカードにHDCP(ハンディキャップナンバー)として難1→易18で記されている。つまり、HDCPに大きい数字がついているホールが、サービスホールである。
比較的パーを取りやすいホールとはいうものの、ゴルフ場側の思惑が通用しないHCの大きい人たち、初心者、初級者には、このHCPは無縁である。難しいホールでラッキーなパーを拾ったかと思えば、易しいホールでダボ、トリ、それ以上の大叩きをする。HCPの存在を知らない彼らには、そのジレンマはない。
ところがある程度の腕前になった頃、スコアカードにHCPという欄があることに気付き、そこにある1~18の数字の意味を知る。知らなかった方が幸せだったかもしれない。知ったことで、ジレンマ、ストレスを感じるようになる。
特に易しいとされるホール、いわゆるサービス
ホールで大叩きした時の後悔「やっちまった」感は、その後のホールまで引きずることに。「後悔先に立たず」なんであんなに叩いちゃったんだろう、あのホールの大叩きさえなかったら・・・、せっかくサービスホールだったのに・・・と
バッグに入れることを許されたドライバーをはじめとするウッド、ショート、ミドル、ロングなどのアイアン、ピッチング、サンドなどのウェッジ、そしてパター、これら14本のクラブの特性を活かしながら、コース、距離、傾斜、風などの様々な状況と戦うボールゲーム、これがゴルフ。
そこには、プレーヤーの個性が見え隠れする。届かないのが分かっていても果敢に挑み池やバンカーに入れる挑戦者、それを見て安全策をとったつもりがダフったり、トップしたりで、攻めなかったことを後悔する者。
しかしこれらは結果論、どこにも正解はない。ただこの後悔を、言い訳、タラ・レバ、そして負け惜しみで包み込むゲームには、その人の人間性が見え隠れする。そんなゴルファーのつぶやきは、実に面白い。ゴルフは、人間味溢れるボールゲームである。
ドライバー、右に左に大曲がり
アイアンは、ダフリ、トップで乗らず、寄らず
パッティング、ショート、オーバー何するものぞ
とかくゴルフは難しい、だからゴルフは面白い
道具を見つめ、道具にミスの原因の一端を担ってもらうテクニックは、一種の照れ隠しの術である。ドライバーでのティショットの空振り、2打目フェアウェイウッドでの空振り、他あらゆるミスショットのあと、クラブを見つめるという行為。コースでよく見かける1シーンである。
これは野球でゴロをトンネルした時、フライをバンザイした時などにグローブを見つめる。バントを失敗した時、空振りの三振をした時にバットを見つめる。テニスでミスショットした時などにガットを直しながらラケットを見つめるなど、多くのスポーツで見かける1シーンでもある。
このとき、哀愁に満ちた眼差しで、ちょっと恥ずかしそうに見つめる、というのがコツ。これにクラブ、グローブ、バット、ラケットを、次は頼むよと言わんばかりにポンポンと叩く仕草を加える応用編もある。
しかし度が過ぎれば、照れ隠しの範疇から外れることに。クラブ、グローブ、バット、ラケットを地面に叩きつけるという行為はNGである。これは怒りの表れであり、単なる八つ当たり。照れ隠しではない。しかもこれは間違いなく周囲の反感を買うことに。
言い訳上級者は、ゲーム前からその迷彩を施す。「いやぁ、何か月ぶりかな。久しぶりのラウンドだ」、「最近忙しくって、打ちっ放しにも行ってないなぁ。」と、練習、実践から遠ざかっていることを事前に周知しておく。あるいは、「最近腰を痛めて、腰が思うように捻れないなぁ、肩を痛めて、肩が回らないなぁ」「いやぁ昨夜は飲み過ぎちゃって、午前様。寝不足だよ」と、体調不良を事前に周知しておく。
この2つの言い訳はあまりにもポピュラーではあるが、いまだに鉄板ネタ。これぞキング・オブ・エクスキューズといえる。
しかし間違っていいスコアがでてしまった時の気の利いた言い訳も、用意しておこう。「あんまり久しぶりで、ゴルフの神様がビギナーズラックをプレゼントしてくれたみたいだ」とか「体調が悪く無理をしなかったのが良かった、おかげでスイングも欲もコンパクトにおさまった」なんてどうだろうか。
ミスショット、ミスパットの原因が、フェアウェイのディボット、グリーンのスパイク跡などボールの置かれている不運な状況による場合には、問題なく言い訳候補になる。しかし自分で招いた不運、ボールがハザードや林などにあることなどは、決して言い訳のネタにしてはならない。また、同じ条件でプレーしているコンディション、たとえば雨、風を言い訳のネタにすることはタブーである。潔くない。
言い訳はゴルフに限らず、すべてのスポーツにある。いやスポーツに限らず、人生も言い訳の連続である。
ゴルフに満ち溢れている「・・・していたら」や「・・・していれば」のタラとレバ。この「覆水盆に返らず」感は面白い。ラウンドの随所で「後の祭り」に出会うのがゴルフ。人生もまたいくつもの岐路あり、そしていくつもの「後悔先に立たず」を経験して行く。
ゴルフにおけるタラ・レバは、ショット・パットのミス自体を悔いるものではなく、コース戦略の失敗、判断ミスを悔いることが多いのは、私だけではないはず。
池越えを狙って池ポチャ「池の手前に刻んでおけばよかった」、ドッグレッグでショートカットを狙って林の中へ「コースなりに打っていけばよかった」、林から強引にグリーンを狙って林キンコンカン「フェアウェイに出すだけにしておけばよかった」などなど
コース戦略は、自分を知ることから始まる。自分に対する過剰評価は、自滅の誘い水となる。ラウンドの度に出会う多くのタラ・レバは、繰り返される強欲の後始末か。
「過ちて改めざる、これを過ちと謂う」というが、ゴルファーは懲りない。何度やっても同じ過ちを繰り返す。だからゴルフは面白い。何をやっても上手くいかないのはつまらないが、何でも上手くいってしまっても面白くない。成功と失敗の絶妙なブレンドがゴルフの魅力かもしれない。
これからもゴルファーいるところにたくさんのタラ・レバあり。そして、それを肴にした反省会という名のただの飲み会は、タラ・レバが多いから面白い。
巷で囁かれる「シングルの1打当たりのプレーフィーは割高で、もったいない」には共感しかねる。これは、単なる負け惜しみに違いない。しかし、1ラウンドで80打は、正直味気ない気がする。
もう少し、遊びがあってもいいのでは。
ゴルフはどのレベルでも愉しめるボールゲームだと思う。でもゴルフが一番面白いのは、練習場とコースとのジレンマに翻弄され、苦悩するHC36~18辺りだ、と公言する私。実はこれも私Mr.ボギーの立派な負け惜しみ。
ゴルファーのハンディキャップは、この負け惜しみ、言い訳、そしてタラ・レバの数のような気がする。そういえば、知り合いのシングルさん、負け惜しみ、タラレバ少なく、言い訳をしない。競技志向の彼のゴルフは、派手さはないが、凄味がある。ミスは少なく、ミスしたとしても傷口を広げるようなことはしない。
アマチュアゴルファーは、分かったを連発する。本を読んで、あーそうか、分かった。これは分かったつもりでしかない。練習場でやってみて、またしても分かった。しかしこれも分かったの勘違い。さあ、いよいよコースで「分かった」の実践。大概の人はここで「あれ」となる。
こんなことを繰り返しながら、ゴルファーは成長していく。ゴルフスイングは、再現性、反復性を求められる。自分のものにするには、思った以上に時間がかかる。
この「分かった」と「あれ」を繰り返す時間は、決して無駄ではない。この時間もゴルフであり、このゴルファーのジレンマ、苦悩もゴルフの楽しさ、面白さに他ならない。
ゴルフいろは川柳の番外編、ここで一句。
ん分かった できた例(ためし)が ない私
パーオンすると、つい算盤をはじきたくなる。このホール、うまくすればバーディ。
そこでバーディ狙いの強気のパットに。ボールはカップを大きく越えて転がり行く。返しのパーパットは一転弱気に。ボールはカップに届かない。結果バーディチャンスはボギーに、その差2打、残念な結果。
これはゴルファーなら誰しも経験したことがあるはず、そしてゴルフを続けていく限りずっと付き合い続ける一コマ、一風景である。ゴルフのこんな「とらぬ狸の皮算用」感は面白い。
人生でも、ビジネスでも、どれだけの皮算用をしてきたか、数えきれない。そしてどれだけ皮算用に裏切られてきたか。ゴルフも人生も、なかなか算盤どおりにはいかない。だから面白い。
「ゴルフでは、絶頂から奈落に転落するなど、珍しくもない。まさに人生そのものだね」
(ゴルフの名手、インストラクター、そしてコースデザイナー トム・モリス・シニア)
500ヤード・パー5ホール。ピンまで残り50ヤード地点のグリーン周りまで、3打で運ぶ。ここからカップインまで1
オン2パットの3打を要す。
450ヤードを3打、残り50ヤードも3打。この「百里を行く者は、九十里を半ばとす」を地で行くのがゴルフ。
3打でカップ迄50ヤードと近づいてからでも、1オン3パットの4打、ダブルボギーもあれば、チップインの1打、バーディーもあるのがゴルフ。ゴルフは仕上げが大事。上がってなんぼ、これがゴルフ。
ゴールに近づいても油断はできない。これは人生にも通じる。人生80年を超える今、仕事リタイヤ後の第二の人生は、ちょうどグリーン周りからカップまでの距離の如し。短いようで、まだまだ先は長い。人生もまた仕上げが大事。グリーン周り、第二の人生にドラマあり。
「尽きることのない知的興奮、爽快な散歩。
ゴルフが人間の発明した究極のゲームであること、疑いようもない」
(ゴルフの名手であり、ゴルフ作家 ホレス・ハッチンソン)
上がり3ホール。ゴルフはここからが本当の勝負。ここまで調子よく来ても、ここから崩れればがっかりなことに。逆にここまで調子が悪かったとしても、ここから良くなればいいラウンドにもなり得る。
18番最終ホールを終えた時の達成感がゴルフの醍醐味。ゴルファーはラウンドの度ベストスコアという有終の美を目指しながらコースを歩く。しかしたとえベストスコアがでなくとも、終わり方が良ければ次につながると考える。締めくくりが大事。
これは、人生「終わりよければすべて良し」に通じる。ゴルフは人生そのものとまでは言わないが、ゴルファーがゴルフを止められなくなるのは、この辺りのゲーム性、ゲーム感にあるのでは。
ゴルフにバーディー、パー、ボギーがあるように、人生の終わり方にも、バーディー、パー、ボギーがあるのかも。悔いの残る人生、まあまあの人生、充実した人生というように。いい終わり方にするためは、上がり3ホール、第二の人生、ここでスタミナを切らさぬよう、肩の力を抜いて歩き続けていきたい。
「肩から力が抜けて、ようやくゴルフも人生も一人前」
(全米女子アマを6度制す グレナ・コレット)